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繁華街を徘徊して思い出したこと(つづき) [日記、雑感]

 聞くところによれば,ベーゼンドルファーのピアノというのは半ば工芸品的な生産体制の元で作られており,年間三百台程度の生産量だという。
 今になってどれくらいの値段がするものなのかを調べてみてぶったまげた。あらためて、どえらいことをやらかしたものだと反省している。

前記事:http://tuttle.blog.so-net.ne.jp/2013-01-29

俺は炭酸ガスのボンベが直撃した痕をしげしげと眺めてみた。
ちょっと離れて見ただけでも明らかにそれとわかる打痕だった。
指で触ってみるとはっきりと凹んでいる。素人の俺が考えるに、その場で何か施して修復することはとても無理に見えた。

 俺はまず,重い気分で職場に電話をかけて事務員に現在の居場所とやらかした内容を伝えた。
携帯電話はおろかポケットベルさえろくに普及していなかった頃の話だ。俺は空調の利いていない店内で冷や汗やら脂汗やらをかきながら上役からの電話を待った。
 幾らかしてから店の電話が鳴り,受話器を取り上げると上役からだった。
やり取りの内容は正確に思い出せないが,最終的には個人として責任を取る覚悟があると伝えたように覚えている。

 会社なんていうものはほぼおしなべて,良いことは全て会社のおかげであり,悪いことは全部社員のせいだと思っているものだ。この時も例外ではなかったと俺は覚えている。
 暗い気分でビールサーバーのセットを終えた俺は一旦現場を撤収して店を出た。
菓子折りを買い込んで夕方近くになったのを見計らって俺は再度その店を訪ねた。数人来ていた従業員のうちの一人に俺は身元を明かして自分のしでかしたことを伝えた。

 その従業員は当惑気味に,自分には答える裁量がないのでママさんが来るまで待ってほしいと答えるとその後は俺などそこにはいないかのように自分の仕事を続けた。
 俺は少し狼狽えながら他の従業員にも話しかけたがいずれも同じ反応で,結局ママさんが出勤してくるまでいたたまれない気分で待つことになった。

 
bosen185.jpg

 待つことしばし,ママさんが現れた。
俺がおずおずと挨拶し,自分の所行を白状すると最初は面倒臭そうに話を聞き流していたその容姿端麗な女性はだんだん顔つきを険しくし,眉毛はだんだん吊り上がっていき、それこそ般若のような顔つきを目の当たりにしながら俺は冷や汗をかき始め,息は詰まって心臓が口から飛び出しそうになった。

「ちょっとあんた,何をしたって言うのさ・・・」だんだん鼻息の荒くなってきたママさんは受け取った菓子折りをカウンターに置くと荒々しい足取りでピアノのある方に向かい,傷の様子を仔細に調べ始めた。
「あんた,これ,一体どういうことなの!」俺を射抜くような目つきで睨みつけて尖った声を出すとママさんはもうこれ以上はないというくらい目を吊り上げた。
 心臓に槍が突き刺さったような気分で俺は平身低頭,平謝りに謝った。
「謝って済むような話じゃないわ!あんた,これが何だかわかっているのかい!」ママさんは凄みの効いた声で俺を一喝した。
「ただのピアノでないことは承知しています。弁償できるものかどうかもわからないのですが,とにかく,ひとまず、お詫びさせて頂きたいです」俺はおろおろしながらどうにかこうにか答えた。
「全くよりによって・・・・!三万や四万で済む話じゃないんだからね!」激怒したママさんが機関銃みたいな勢いで俺に罵倒の言葉を浴びせかけ,俺はひたすら頭を下げ続けた。
 
 とにかく,とママさんは言葉を続けた。
この店の経営者は自分でなく,問題のピアノも自分のものではないのでどんな風に弁償してもらうかについてはここでは答えられない。
それは事務所に相談した上でお宅の会社に連絡する

 彼女はそう締めくくるとゴキブリを見るような目つきで俺を睨みつけて手で追い払う仕草をした。

 彼女の言う事務所とは言うまでもなくヤーさんである。
俺は鉛のような心を抱えて自分の職場に戻り,上役連中にしこたまヤキを入れられて大いにぐれた気分でその日退勤した。会社の言い分というのはつまり,最悪の場合はおまえ個人が弁済しろというものだったからだ。
 自分の不注意が招いた災難とは言え,これでは一体何のための会社なのかとも思った。
その夜の俺は不安やら頭に来るやらで大いに寝付きの悪い時間を過ごした。ヤー公に修復の費用の弁償を迫られて青ざめ,困惑する様子と上役のデスクに辞表を叩き付けて息巻く自分の姿とをかわりばんこに思い浮かべて悶々としているうちに空は明るくなっていた。

 翌日俺は淀んだ気分で出勤し,問題の事務所からいつ電話が来るかとびくびくしながら朝の業務を済ませ,何もないようなのでそのまま外勤に出た。
 重苦しい気分をまとわりつかせながら鬱々として働き,職場に戻ると事務員さんがニコニコしながら前日のママさんから電話があり,正直に申し出て誠意のある態度だったので今回の件は不問とするとのことだったと俺に伝えた。
 それを聞いた俺は,内部で凍り付いていた何かがいっぺんに溶けていくような感覚を覚えた。自分のデスクにへたり込むようにしてタバコを立て続けに灰にしながら俺はピンチを脱したことを実感した。何と言うか,人間,やはり正直であるべきだとつくづく思った。

 二昔以上も前の出来事をこれくらいまでに覚えているということは,それはやはり結構緊張度の高いハプニングだったと思う。
 友人と行ったスナックは家賃の支払がきついので今月末で閉店するという。
厨房屋としての俺はある頃から飲食店関係の得意先が減り,若い頃にはしょっちゅう出入りしていたその雑居ビルに仕事で入る機会もめっきり減っていた。
 会計を済ませて店外に出た俺は,エレベーターには乗らずに階段を下りながらフロアーごとの看板を眺めて歩いた。さすがに二十年以上も経つと雑居ビルのテナントは殆ど全て入れ替わっていて,知らない屋号ばかりだ。俺がベーゼンドルファーのピアノに瑕疵を残した件のラウンジも聞けば大分以前に閉店し,ママさんは水商売から手を引いてどこぞで悠々自適の暮らしと聞いた。
 ピアノがその後,どのような運命を辿っているのかはわからない。なにしろショパン・コンクールの公式楽器に指定されるくらいの大したメーカーなのだからそれはしかるべき場所で弾かれるべきであって,俺のような不幸な兄ちゃんを生み出さないためにも決して繁華街のピアノバーのようなところで演歌の伴奏みたいな使われ方はされるべきでない。

 何か,職業人としての姿勢に大きな教訓を与えてくれた出来事でありお客さんだったという感謝の気持ちが俺にはあり,機会があればお礼の一言も伝えたいとは思うがあまりこちらから積極的に関わりたい人々でもないのでその辺り,この一件については俺の心象は複雑な色合いをもっておるのだ。
 あれこれ思い出しながら階段を下っていくうちに真冬の風が吹きまくる雑居ビルの入り口に辿り着いた。腹が減ってきたので帰りがてらどこかで蕎麦でも食っていこうかと繁華街を徘徊しながらいつの間にかこの街には豪華な店作りのラウンジ・バーがほんの1,2軒しか生き残っていないことに気づき,寒々しい気分になった。
 社会的に成功し,金回りの良くなったおじさんがあつらえのいい服を着て上等なブランデーなんかを飲み、札ビラを切って遊ぶような場所はもう殆どない。ドタバタしながら生き続けていくうちに俺たちはそういうところにいるのだ。(この項終わり) 
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007

仕事先でのトラブルあります、、、

スーパーでナッツ類詰め合わせ数個(アクリルケース入り)を脚立で引き掛け、床に倒して中身バラマキ、売り値で買い取(仕入れ値では無い)させられたり、、、、(-_-;)
ショッピングセンターの展示場で、足場の上からドライバーを落として小学生の描いたポスター(市長賞受賞作品)に傷をつけ、親さんに謝罪したり、、、、(-_-)

893絡みでは、とうとうピストルで撃たれました(*_*;、、、、
これは、仕事では無く、写真集刊行で新聞に載り、右系なんですがそれをネタに係わりを強要的にされ、達筆の手造り雑誌が送りつけられ、、、電話が何度もかかり、、、もう駄目かな?と観念したその日の夜の出来事で、、、
気が付くと布団の中!・・・夢で良かったー!”!と安堵しました、、、
結局断り続けて音信不通としました(^_^;)

いろいろありますね。
by 007 (2013-02-01 04:16) 

くるみ

直ぐに続きの記事をありがとうございました!!小説さながら 自分を主人公?にしながら 落ち込んだり安心したりしてましたf(^_^; ママさんの描写は流石ですね(笑) ヴァイオリンでゆうとストラディバリウス的なピアノでしょうか?我が家のオモチャの様な愛玩ピアノとは桁違いの音色でしょうね!?…まあ、身の丈にあった我が家のピアノが大好きですが(^^)d 『会社』の実態も垣間見られる出来事でしたねm(__)m。
by くるみ (2013-02-02 08:03) 

HarryTuttle

くるみ様,いつもコメントありがとうございます。
 ピアノ教師をしている義理の姉によると,ベーゼンドルファーのピアノは弱音の良さに定評があり,数千人規模の大ホールよりはもう少し規模の小さい場所で良さが発揮されるとのことです。
 キータッチには独特のくせがあるので(特に打鍵後の指の離し方にある種のコツを要するそうです)ヤマハやスタインウェイを弾き馴れた人には違和感があるのではということでした。
 
 全て他人の受け売りのレスでございます。
by HarryTuttle (2013-02-02 23:47) 

HarryTuttle

007様,いつもコメントありがとうございます。
保全業務には補償問題がついて回る重い現実がありますね。
得意先から頂く修繕費よりも弁償の金額の方が多額になる逆ざやの経験が私にはあって,思い出すたびに苦々しい気分になります。

 まだ使ったことはありませんが,上限五百万円の事故補償の保険に入っています。毎月3千円くらいの支払ですがこれが命綱ですね。
 最もベーゼンドルファーのピアノは一番安いアップライト型でもこの補償額では追いつかないそうです。
by HarryTuttle (2013-02-05 16:28) 

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